みなさんが志望している高校にはどのような先生がいるのでしょうか?どのような先生がいるのか分からないまま行くのは不安ではないですか?
本校には大学院まで進学し、専門分野を研究してきた先生たちがいます。『みなさんを支える先生たちを本校は詳しく紹介することができます!』
本校の先生たちは、学んできた知識と経験を、みなさんのために役立てます。

岡田 龍平(オカダ リュウヘイ)
担当科目:外国語(英語)
出身校:筑波大学人文・文化学群人文学類言語学主専攻英語学コース
筑波大学大学院人文社会科学研究科現代語・現代文化専攻
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Q1.どのような中学生・高校生でしたか?どんなことにワクワクしていましたか?どんな活動に夢中になっていましたか?
A.中学生の頃はとにかく友達と遊ぶことが好きで、空いている日はほぼ毎日のように友人たちとスポーツやカードゲームなどをして過ごしていました。また、部活動として始めた卓球にのめりこみ、
毎朝走り込みを行ったり、土日は毎週のように練習試合に行ったりなど、精力的に活動していました。
高校に入ってからも土日問わず所属していた卓球部の活動があり、とにかく練習に明け暮れる毎日でした。部活がオフの日でも練習場に集まって、チームメイトと卓球をしたり雑談をしたりしていました。
Q2.進学する分野(大学)に、なぜ興味を持ったのですか?それはいつ頃ですか?「これだ!」と思ったきっかけがあれば教えてください。
A.当時の環境もあって「当然国立大学を目指すもの」と考えていたのですが、その中で大きな負担なく英語の教員免許を取得できるという点で筑波大の人文学類を意識するようになりました。
高校3年の夏休みに同級生数人と大学の見学へ行き、その広大なキャンパスと開放感に魅力を感じました。
Q3.教員になろうとしたきっかけは何ですか?
A.中学生時代に比較的勉強が得意だったのもあって友人に勉強を教える機会が多く、その中で友人から「教え方分かりやすいね」と言ってもらえたことが教員という職業を意識するようになったきっかけです。
高校に入学してからは「教員」という仕事に対するこだわりは薄くなっていったのですが、大学生活や教育実習での経験、大学院での研究を通して、改めて教員という仕事に就くことに決めました。
Q4.大学で選ばれた学部・学科を志望した理由は何ですか?その分野に惹かれたポイントや、迷った末の決断などもぜひ!
A.英語の教員を目標としていたため、当初は教員養成に特化した大学を目指していました。
ただ、学習を進めていく中で、「専門性の低い教員に教わりたいと思う生徒はいるのだろうか…?」と疑問を抱くようになりました。
そこで、英語という言語そのものに関する知識を身につけ、専門性を高めておきたいと考えるようになり、「英語学」という分野に進むことにしました。
Q5(大学院に進学された先生へ)大学院への進学を決めた理由や背景を教えてください。どんな思いや目標があったのでしょうか?
A.大学3年次に履修した「応用言語学」の授業において、担当してくださった教授や大学院生の先輩から助言を受け、勉強会に参加させていただくようになりました。
そこから「英語教育」に対する関心が高まり、当時の専門であった「英語学」の知識に留まらず、それをどのように生徒に指導していくかという方略について知見を深めたいと思い、大学院への進学を決めました。
Q6.ご自身の専攻・専門分野について教えてください。
※専門用語の使用も可です。先生ならではの視点でご説明ください。
A.
【英語学】
学部生時代は英語学を専攻しており、卒業論文は「関係詞」について英語で書きました。関係詞には「制限用法」と「非制限用法」の2種類の用法があり、それぞれが表す意味や持つニュアンスは明確に異なるとされています。
例えば、以下の英文はそれぞれ異なるニュアンスを含んでいます。
制限用法:I have two sons who are doctors.
→私には医者の息子が2人いる。(医者ではない他の息子がいるかも)
非制限用法:I have two sons, who are doctors.
→私には息子が2人いて、どちらも医者である。(息子は2人しか存在しない)
しかし、コーパス等を用いて用例を確認すると、形式上は「制限用法」であるにもかかわらず表す意味は「非制限用法」的であるものが少なくありません。そのような現象が生じるのはなぜなのかを文法的な視点で検討し、
制限用法と非制限用法の表す意味は明確に二分できるものではなく、単一の連続体の中に含まれている概念であるという結論に至りました。
【英語教育】
大学院生時代には専門分野が英語教育へと変わり、その中でも特にリーディング、および語彙習得を専門としていました。語彙習得にもさまざまな側面がありますが、
私は学部生時代の英語学の知見を活かして「多義語」に焦点を当て、多義語が持つ意味同士の関連性の強さがどのように習得に影響を及ぼすのか、どのような指導方法が効果的であるのかについて検証しました。
例として’bank’という単語を挙げてみましょう。
bankという名詞にはみなさんもご存じの「銀行」という意味のほかに、「土手」という意味があります。この2つの意味を聞いたとき、みなさんは「全く別の意味じゃん!」と思ったことでしょう。
その通り、これらの2つの意味のbankは「同綴異義語(どうてついぎご)」と言い、語源も異なる全く別の単語なのです。
このように一見すると同じ単語だけど意味が異なる単語もあれば、「(生物としての) 子羊」と「子羊の肉」という2つの関連した意味を持つ「多義語」である’lamb’などの単語も存在しています。
では、bankのように意味がかけ離れている単語と、lambのように類似した2つの意味を持つ単語では、どちらのほうが覚えやすいと思いますか?
私が行った研究における結論は、意味の関連性 (semantic overlap) が高い語、つまりlambのように2つの意味が近い語のほうが覚えやすく、なおかつその単語が動詞である場合のほうが記憶しやすいというものでした。
みなさんも、複数の意味を持つ単語の学習をする際には、特にbankのように意味が大きく異なるものを強く意識してみてください。
Q7.学部生・院生時代に、学びや研究で特に力を入れていたことは何ですか?印象に残っているプロジェクトや、楽しかったこと、苦労したことなども。
A.計画的に物事を進めるのが苦手だったため、学会直前や修士論文提出直前には死に物狂いで研究や準備を進める羽目になっていました。いずれも自分ひとりの力では絶対に乗り切れなかったと思います。
ゼミの友人や先輩方、教授の助けを借りながら連日徹夜し、なんとか完成させることができたことも、今となってはいい思い出です。
Q8.その分野の奥深さや楽しさを、興味を持つ中学生・高校生にどのように伝えたいですか?「この世界、面白いよ!」というメッセージを込めてください。
A.みなさんは、「startとbegin、同じ意味って習ったけどなんで2種類あるんだろう?」と不思議に思った経験はありませんか?
もちろんこの二つは大枠で捉えると同じ意味ですが、使用する場面や状況が若干異なります。
このように、英語をただ表面的に捉えるだけでなく、その背景や文脈、使われるようになった歴史に目を向けてみると、意外と英語が面白いものに思えてくるかもしれません。
Q9.最後に、これから進路を考える中学生に向けて、メッセージをお願いします。
A.上ではつらつらと英語の学問的な側面や魅力について述べてきましたが、英語というものはあくまで言語、あくまでツールです。結局のところ「英語そのものを学ぶ」のではなく、「英語を使って物事を学ぶ」ことが多くの人にとってのゴールになります。
英語が苦手な人ほど英語を勉強だと捉えがちですが、そうではなく英語を使って読んだ文章やその内容の面白さに気づくことができるようになれば、次第に英語を学ぶことが苦ではなくなっていくと思います。
ぜひポジティブな気持ちで、英語を楽しんで使っていってください!

広瀬 圭一(ヒロセ ケイイチ)
担当科目:数学
出身校:新潟大学理学部数学科
新潟大学大学院理学研究科修士課程修了
新潟大学大学院自然科学研究科博士課程修了(理学博士)
Q1.どのような中学生・高校生でしたか?どんなことにワクワクしていましたか?どんな活動に夢中になっていましたか?
A.中学時代,ジャッキー・チェンに憧れ,町の空手教室に通う,勉強好きな少年。3月生まれのためか極めて運動音痴だったため,
勉強するしか自己表現方法がなかったと思われる。明るい性格のためであろうか,北海道興部町立興部(おこっぺ)中学校第19代生徒会長となる。
高校時代,同じクラスの女子に憧れ,陸上部に入部。偶然ハンマー投と運命的な出会いをする。高校入学当初は,割と勉強ができた方だったが,
数学ばかりしか勉強しなかったため,全体的な成績は急降下。
圧倒的な数学力とその他の教科は何とかつじつま合わせで,国立大学に滑り込む。
(ちなみに入学後,数学科35名クラスで共通テスト(当時共通一次)の成績は,下から3番目でした。自分以上に数学力のみで合格した者がいたことにビックリ)
Q2.進学する分野(大学)に、なぜ興味を持ったのですか?それはいつ頃ですか?「これだ!」と思ったきっかけがあれば教えてください。
A.経済的に厳しい家庭であったこと,および数学の教員志望ということで,国公立大学理学部数学科進学志望は,決定事項であった。共通一次に失敗し,希望し続けていた(北海道)大学は,不可能と判断。
さらに英語がすこぶる苦手だったため,数学1教科のみで受験できる大学を「北」から順に探していた。
当時はA・Bに日程といって,国公立大学は2校併願受験できたため,1つ目は数学だけで受験できるA日程:(青森県)弘前大学。山形大学も数学のみで受験できたが,A日程だったため,北の弘前大が優先となった。
隣のB日程:新潟大学も数学1教科受験だったため,受験先は,弘前大・新潟大に決定。いずれも共通1次終了後に,入試要項等を取り寄せることとなった。
当時は,インターネットも携帯もなく,オープンキャンパス等もほとんどない時代,しかも,この世の果てのように北海道の超僻地のため,受験に行く時がその大学に初めて行くというのが普通だった。
当然赤本(大学入試の過去問題集)も弘前大のものは持っていたが,新潟大の赤本は北海道では品切れ,新潟に到着後購入,そこで初めて過去問を見る。
ちなみに同じ分野の問題が連続して出題されていたので,新潟到着後はその分野のみを徹底復習していたら,やっぱり出題された。かなり高度な問題であったが1問完答,合格への大きな要因となる。
Q3.教員になろうとしたきっかけは何ですか?
A.おそらく,数学が性に合っていたことと,中学時代,友人に数学を教えていて,「教え方が上手だね」とかなんとか言われたのがきっかけで数学の先生になろうと思ったのだと,推察される。(すみません,ほとんど覚えていません。)
教員志望理由は,ときどき随所で話をしていますが,たくさんの人と出会いたいという人生のテーマであったり,高校数学には私が必要な人物であるという,数学教育の使命感であったりとか,
2度の大けがでインターハイ出場を逃した部活動の心残りであったりとか,学校の先生に命を救われ,多分学校の先生になりたかったであろう母親の影響であったりとか,1テーマだけで1時間ぐらい話ができてしまい,話が長くなってしまうので割愛。
Q4.大学で選ばれた学部・学科を志望した理由は何ですか?その分野に惹かれたポイントや、迷った末の決断などもぜひ!
A.中学時代より,数学の教員になりたかったため,理学部数学科の一択であった。教育学部数学科より理学部数学科の方が,しっかり数学的数学をするとは言われていたので,数学が得意だと勘違いしていた広瀬少年は,しっかり数学をやる方を選択。
塾の先生には,大学数学については言葉をにごされはっきりとした説明がなく,なぜか数学科に進学することを止められたが,理由は入学後,授業開始20分で気づく。(数学が難し過ぎた。何を言っているのか全く分からなかった,大学入学後最初の数学の試験は確か100点満点の中の5点だったと思う。高校時代は,数学のテストはほとんど満点で,模試でも2回くらい満点を奪取したはずだったのに。)
Q5(大学院に進学された先生へ)大学院への進学を決めた理由や背景を教えてください。どんな思いや目標があったのでしょうか?
A.前述の通り,大学入学直後に落ちこぼれ,約2年間ほど,バイクを乗り回す等,呑気で怠惰な学生生活を続けていた。しかしながら,大学3年になるときに,
理由(同郷の親友の影響や,このまま数学教員になることへの不安等)はいくつかあるが一念発起をして,1科目(「確率論」の講義)だけは真剣に受けてみようと思い立ったのである。その講義のみ一生懸命受講,奇跡的に「優」の成績を取得。
大学4年には「確率論」担当教官(師匠)のゼミを選択。4年進学の春に,大学院進学をその師匠より打診される。散々悩み,学費のみを保護者に面倒をみていただき,生活費は自分で捻出することを約束に進学を決心する。
今から思えば,バブル時代も後押ししたのかもしれない。(だだし,進学前後にバブル崩壊。)
大学院進学にも入試はあります。
4年になる春先に師匠から過去問をいただいたが,その時点で一問も問題の意味すら分からない。そこから大学院入試受験勉強を開始した。大学入試の時も一日18時間くらい勉強したけれども,その500倍くらいは勉強した気がします。
そんな中,大学4年の夏に前述の大学院進学にも影響を与えてくれた,同郷の親友が事故で亡くなってしまった。そこから先はさらに鬼神のように毎日泣きながら勉強しました。
大学院10名定員のところ17名受験,どう考えても実力的には最下位から3番以内。相手は大学入学以来,真面目にしっかり勉強し続けている秀才集団,普通に考えれば不合格確実なのですが,14名の合格者が出て,その中に私は入っていました。
大学院進学を決心した後も,しばらくは,超勉強できない人物だったので,恥ずかしくて大学院に進学の意思を秘密にして友人に知らせることもありませんでしたし,周りの友人も広瀬が合格することはないよと,思っていたと思います。
さて,14人合格者中12名が進学,その進学者の中恐らくは最下位の成績だったと思われる。上位陣は入学以来の秀才集団で,真面目で近寄りがたい存在の方々であったが,大学院時代は戦友として皆この上なく仲良くなった。しかし相変わらず私の学業成績は良くはない。
大学院進学後,大学時代前半の勉強不足が,致命的な苦労の原因となる。文字通り死に物狂いで,寝ても覚めても勉強しまくりました。大学院受験の際も相当に勉強したが,進学後はさらにその500倍くらい勉強した気がします。というよりも,大学院入試の試験問題よりも500倍くらい難しいことやっていたため,自然に500倍くらい勉強しないとならなかったのだと思います。500×500=25万倍くらい本当に勉強した気がしましたよ。
だいたい高校までで習う数学は,およそ300年前まくらいでの数学で,大学4年間で習う数学は,約100年前くらいの数学まで。他の大学院の有志(秀才集団ら)は,専門文献を初めから読み込むようなスタイルでその100年前からのギャップを埋めるところからスタートするであったが,私の師匠は,初めから現在の数学,つまり最先端の論文を読むという指導法だった。
例えるなら「スキーをやったことがない人が,いきなりヘリコプターで山頂に連れていかれ,下まで頑張って下りてね」という感じであろう。転んで転んで全身打撲骨折を繰り返しボロボロになって下まで降りてきたら,またヘリで山頂へ,今度はさらに険しく高い山というのが繰り返された。
そんなことを繰り返す中,後に縁のあるカナダ・モントリオールのマギル大学の先生の論文を読んだところ,これまでと段違いに難解で,これを読み切ったときに,一気に暗闇から光が差す感覚を覚えたものでした。
それまでずっと真っ暗のトンネルを必死に進んでいたのが,怖いものがなくなったというか,もう何を読んでも大丈夫だという妙な自信になりました。
その甲斐があって,幸か不幸か運と師匠に恵まれ,修士課程2年時に,論文が一つ九州大学の出版誌から世に出ることとなったってしまった。
さらに,シンポジウムで全国の大学の先生を相手に研究発表することにもなる。
これは,前述の大学院進学者12名中ありえないほどの快挙であった。
彼らは専門文献をコツコツ読んでいる。
大学入学以来ずっと成績下位だった私が,ついに秀才集団を押しのけトップに浮上することとなるのである。
大変苦労したのだが,こうなったところで,自分は勉強するとどこまで勉強できるようになるのかを,見てみたくなってしまった。
これが人生の成功か失敗か難しいところであるが,博士課程進学を決心することとなる。
当然学費,生活費はすべて自分で捻出すこととなる。ただし,大学院生ともなると,塾・予備校等で,比較的短時間で結構アルバイト代を稼げるようになっていた。奨学金と授業料免除等と合わせて十分生活できたものである。
ちなみに,奨学金は当時,教員になると返還が免除される制度があった。その昔,母親が調べてくれていたらしく,中学時代にどこかに奨学金の面接に行って,高校時代から奨学金を借りていた,その方が大学で借りられやすいということだった。
Q6.ご自身の専攻・専門分野について教えてください。
※専門用語の使用も可です。先生ならではの視点でご説明ください。
A.「統計学」専攻で,修士課程では「NONPARAMETRIC ESTIMATION」,博士課程では「Sequential Confidence Interval Estimation」と基本的に「推定」が専門分野である。
博士論文については,例えば,「ある電化製品の寿命を調べたい」といった場合に,すべての製品を寿命まで調べると,正確な寿命を当てることができるが,当たり前のことだがすべての製品が寿命を迎えてしまうので,それでは売る商品がなくなってしまう。
そこで,ある条件を満たしたら,サンプリングを止める,ストッピングルールというものを設定する。すると,サンプル数も確率変数となる。
さらにそのデータ数で,推定したものがどの程度あてになるのか(あてにならないと推定の意味がない),ということを検証し,過去に同様のことをやった海外に数学者が推定したものより拡張したもので,さらに精度が良いものを開発,検証したのが主な研究結果である。
その博士論文は,国立国会図書館と同郷の友人の仏壇に寄贈されている。私の手元には簡易版があります。
Q7.学部生・院生時代に、学びや研究で特に力を入れていたことは何ですか?印象に残っているプロジェクトや、楽しかったこと、苦労したことなども。
A.学部生時代:入学直後数学で落ちこぼれる,高校時代結構頑張った「ハンマー投」も全く通用しないことが分かり,アイデンティティの崩壊である。
そこで,バイク免許を取得し適当な人生を歩む。
大学2年の秋頃,前述の同郷の親友の壮大な夢を聞く。高校卒業までは圧倒的に私の方が勉強ができはずだったが,
大学2年時点で大きく逆転。このまま何となく教員になるのでよいのかと思い悩み,とりあえず勉強は無理なので,
部活「ハンマー投」を高校時代に行けなかった全国大会出場レベルになろうと取り組む。
そののち,勉強も1教科だけ頑張ってみようと決心。
大学4年になるとき,すでに教員採用試験の勉強を開始していたが,
師匠に大学院に誘われ,進学を決心。しかし過去問の異常な難解さに奮起,大学院受験勉強を開始する。
大学4年の夏に同郷の親友を亡くす。その秋大学院受験合格。修士課程2年間で論文を発表。博士課程進学を決心。しかし,
博士課程1年目のときに,師匠が1年間カナダ出張となる。そのため,1年間師匠がいない状態が続く。
その年の4月から夏ぐらいまでお金を貯め,カナダに行くことにする。
先に先輩が渡航していたが,お金が貯まるのが遅れた私は夏過ぎくらいに渡航することになる。
全財産を使い果たすまでの1か月半ほどカナダに滞在しました,24歳の時です。
そこであの論文の著者カナダ・モントリオールのマギル大学の先生(ちなみに,私人生でお会いした人物の中で最もすごい(タフで賢い)人と思われる人物の一人)のお宅の引っ越しを手伝う。
かなり頑張って引越しの手伝いをした(ピアノが一番重かった)ので,恐らく彼らは我々のことを忘れないでいてくれているであろう。
ちなみに,師匠が1年間出張中にも,日本にいた私はまったくボーっとしていたということでもなく,1つレポート論文を完成させていた。
後日談であるが,関東学園に奉職したのちに,その論文は先輩と師匠(と私)の業績として,世に出ていたようである。
大学院博士課程は通常3年間であるが,最初の1年間師匠不在のためもあり,3年間で修了できずに1年留年してしまい4年目突入。
さすがに留年では,奨学金・授業料免除ともに停止,生活困窮ながら学位論文を書き上げ,博士課程修了。時を同じくして縁あって,関東学園への就職が決定する次第である。
Q8.その分野の奥深さや楽しさを、興味を持つ中学生・高校生にどのように伝えたいですか?「この世界、面白いよ!」というメッセージを込めてください。
A.「数学の道は鬼の道」:高校時代までは数学はかなり得意な方でしたが,大学進学後,大学数学に落ちこぼれ,数学が全く分からない,
どこが分からないかも分からない,そんな経験をしています。
生徒の皆さんの算数・数学が,まったくわけ分からないという気持ちは,痛いほどよくわかります。しかしながら,先生はそこから復活した経験もあります。
何一つわからないところから,ひと項目ずつ分からないこと全部分るまで調べたら,不思議なことに全部分りました。
どれだけ難しくても,丁寧に読めば,分かるようになるということが分かりました。
20代のころは,先生の全知全能全細胞をもって,数学で世界と戦っていたのですが,自分の力の限界を感じ力尽きて,プロの数学者にはなれませんでした。
(もともと数学者になるつもりはなく,高校の数学の教員になるつもりでしたが)とにかく先生にとって本当の数学は,強敵過ぎて最も恐怖を感じる怖いものです。
皆さんも数学はイヤなものかもしれません。そこで大学の数学は,師匠と先輩に任せておけば大丈夫だが,
高校数学には先生の力が必要とされていると信じて,高校教員になりました。
高校数学と受験数学そして大学数学と,それらを総合的に観ることができる不思議なタイプの先生だと思っています。
あなたの人生に必要なだけの数学を,必要十分なように提供することができます。
話は少し変わりますが,「ハンマー投」指導の研究は,割と最近2018年ころから,ゼロから始めました。
前述の通り,先生はほかの学校の陸上部の先生方と違って,陸上選手としては全く何の活躍もしておりません。
高校時代は指導者もなく自分流でハンマー投をしていたため,腰に大けがをする。
腰が治るも今度は,球技大会で足首靱帯断絶と,夢のインターハイ出場は夢と消える。
大学時代も全くレベル的に通用するものではなく,健康陸上としてかるーく練習をしていたくらいでした。
今から考えると,当時の投げは,「ハンマー投」ではなく,「ハンマー投風投」だったと痛感しています。あれでは腰のケガもするはずですが,
怪我をしていなくてもインターハイに出場できたかは,かなり怪しいものでした。
そこで次に,当時中学3年だった弟に,「ハンマー投」を中3から伝授し,インターハイ出場を託す。これもやっぱり自己流だったため,
弟も腰を負傷。ここからハンマー投を弟は自分で研究し直したようである。
好記録をあげられるようになってきていたが,実は弟もインターハイ出場はかないませんでした。ここで広瀬兄弟の夢は潰えたかのように思われた。
あれから30年近くの時が経ち,まさか広瀬兄弟の夢をかなえる生徒と出会うことを,誰が予想しただろうか。
先生を志望する人には,少なからず学生時代に何かしら後悔や未練,やり残したことがあって,それを生徒とともに実現したいという願望があるのではないかと思っていて,
実は先生もその一人ではないかと思っています。これが先生が先生になろうと思った理由の一つかと思われます。
さて時は現代2018年に諸事情により偶然,私は陸上競技部主顧問への復帰の拝命を受ける。13年ぶりの陸上部主顧問である。ちなみに,
この13年間は主に特別進学コースの教員をしていたため副顧問で,ほぼほぼ事務的な仕事のみをしていてたまに練習を見る程度でしたし,
実は吹奏楽部の主顧問で楽器運びのトラック運転手をしていました。
陸上部主顧問復帰後ですが,この仕事をしているとたまに奇跡的なことが起るようで,ここで2年生になるある生徒にまたしても運命的な出会いをする。
彼は1年時には「ハンマー投」をほとんどやっておらず,動画等を見て自分流で,ハンマー投をやっていたようでした。2年になって先生が主顧問になって,ほんの少しだけコツを教えたら,もともと力があったのでしょう,
急に記録が伸びだして,これはインターハイに行けるかもしれないと,かすかな希望を感じるようになってきました。
その当時(2年生の初めのころ)はまだまだ夢のまた夢だったのですが,そこから先生の「ハンマー投」研究の始まりでした。
昔(先生の高校時代)は,ほぼ書籍しか勉強する方法はなかったのですが,今は映像・動画等たくさんあります。それらを見様見真似ですが,少しずつ勉強に勉強を重ね,現在に至っています。
(もともと研究者らしきことをやっていたためか凝り性なので,研究力は普通の人よりやや得意なようです。)
その生徒は2年生からのたった1年半で快進撃を見せ,2019年沖縄インターハイ出場し,広瀬兄弟の夢を叶えてくれました。出場だけに留まらず,インターハイ8位入賞,さらには茨城国体群馬県代表で出場し6位入賞,
さらに群馬県高校記録にあと27㎝まで迫る記録を記録しました。それ以来,群馬県で「ハンマー投」といえば関東学園という感じになってきてくれています。
奉職以来28年で先生の関わった10人の「ハンマー投」選手の生徒が,10人全員が群馬県代表として,関東大会以上に私を連れて行ってくれています。最近では,他校から練習に参加したいとの申し込みが,
少しずつ来るようになりました。
まったく「ハンマー投」など,みんな高校に来てから初めて始めるスポーツで,少しは苦労するかもしれませんが,無理なく無駄なく強くなれるように指導します。
別に力自慢である必要はありません(力自慢の方がいいですが),体重50㎏の小さな長距離志望だったの選手も当時の群馬県ランキング2位になりました。
中学校を休みがちだった生徒も全国ランカーになりました。あと15㎝足りなくてインターハイ出場を逃した女子生徒もいました。
中学校で卓球部,柔道部,剣道部,バドミントン部だった生徒みんな県代表で関東大会以上に行っています。
特に女子の力自慢は大歓迎です。ぜひ新スポーツを始めてみてはいかがでしょうか。
でも,本当に得意なのは数学の教科指導ですよ。
Q9.最後に、これから進路を考える中学生に向けて、メッセージをお願いします。
A.義理と人情の生徒指導主事は,陸上「ハンマー投」指導の達人かも!? たし算・ひき算・かけ算九九から大学院入試程度まで,驚異の数学指導力を持つ理学博士。 そしてその実態は,お茶目なマッチョマンで日本一の田舎者。
先日拝観したお寺にあった言葉を紹介します。
『人生に正解なし 人生にすべて無駄なし』。
広瀬先生と出会って人生を共有してみてください,そして人生を少し変えてみませんか。

川島 紀彦(カワシマ ノリヒコ)
担当科目:理科・情報
出身校:東京理科大学理学部化学科
東京理科大学大学院理学研究科化学専攻
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Q1.どのような中学生・高校生でしたか?どんなことにワクワクしていましたか?どんな活動に夢中になっていましたか?
A.中学生の頃、理科や情報に強い興味を持っていました。特に印象的なのは、理科の授業でコイルと磁石、電池を組み合わせてモーターを作る実験に夢中になったことです。
また、クラブ活動ではそのとき初めてBASICを使いました。当時数学で因数分解を勉強していたので、因数分解のクイズを出すプログラムを作り、正しくクイズが出せ、正解を回答できたときの達成感をよく覚えています。
Q2.進学する分野(大学)に、なぜ興味を持ったのですか?それはいつ頃ですか?「これだ!」と思ったきっかけがあれば教えてください。
A.私が理学部化学科、さらに理学研究科化学専攻に進学したいと思ったきっかけは、小学校4年生の頃に理科の実験を経験したことでした。
実験で気体が出たりする現象を目の当たりにして、「なぜこうなるのだろう?」という好奇心が芽生え、それ以来、物質の性質や反応の仕組みに強い興味を持っていました。
Q3.教員になろうとしたきっかけは何ですか?
A.親戚に理科の教員がいたことがきっかけで、教育の仕事に関心を持ちました。次世代を担う若者に関わり、彼らの成長を支えることで、日本だけでなく人類全体の発展に貢献したいという思いから、教員を志しました。
Q4.大学で選ばれた学部・学科を志望した理由は何ですか?その分野に惹かれたポイントや、迷った末の決断などもぜひ!
A.進路を考える際には、英語も好きで、高校では理科よりも英語の勉強に多くの時間を割いていたため迷うこともありました。
しかし、理科の実験を通して得られる「自分の手で現象を観察し、仕組みを解き明かす楽しさ」は、ほかの分野では味わえない魅力だと感じました。
そのため、大学では最先端の化学の知識や技術を学び、さらに深く研究できる環境に身を置きたいという思いが、進学を志す大きな理由になりました。
Q5(大学院に進学された先生へ)大学院への進学を決めた理由や背景を教えてください。どんな思いや目標があったのでしょうか?
A.大学院への進学を決めたのは、学部で取り組んだ研究をさらに発展させたいという思いがあったからです。また、この研究を通して、人類の知見の一つとして貢献することも、私の目標の一つでした。
Q6.ご自身の専攻・専門分野について教えてください。
※専門用語の使用も可です。先生ならではの視点でご説明ください。
A.大学院への進学を決めたのは、学部で取り組んだクラスターの研究をさらに発展させたいという思いがあったからです。
大学院では、ある金属に別の元素を組み合わせた、
2種類の元素からなるクラスターについて研究を進めました。実験結果をもとに構造を推定し、コンピュータによる計算で最適な構造を検討して決定する過程を経て、
専門的な知識を深め、技術を身につけることができました。
【研究内容 インジウムと16族元素の混合クラスターイオン】
In/Se, In/SやIn/Teはバルク固体では様々な組成をとるものが知られているが、それら少数の原子の集合体であるクラスターについての報告例は少なく、
小サイズのIn/SeクラスターInxSey(x+y≦4)に関する理論計算が報告されているのみである。
純粋なInn+は価電子の殻構造によって安定性が説明されるが、
Sen+は立体構造による安定性が支配的である。
研究では13族元素と16族元素を組み合わせた混合クラスターの電子構造と立体構造に関する知見を得ることを目的として、
ガス凝集法によりIn/Se, In/S, In/Te, In/Oクラスターイオンを生成し、質量スペクトルを測定した。さらに密度汎関数法を用いて、その安定構造について検討した。
Q7.学部生・院生時代に、学びや研究で特に力を入れていたことは何ですか?印象に残っているプロジェクトや、楽しかったこと、苦労したことなども。
A.特に印象に残っているプロジェクトは、理化学研究所で行った実験です。この実験は研究室全体の活動の一環であり、泊まりがけで実施しました。
学部4年生・院生時代には、特に卒業研究と修士研究に力を注ぎました。研究は時間がかかり、思うような結果が得られないことがほとんどで、とても苦労しました。
毒物を扱う場面もあり、安全面にも常に注意を払う必要がありました。
また、学部で学んだ知識だけでは追いつかず、ときには電気回路の知識まで必要になるなど、幅広い分野の知識が求められました。
自分しか取り組んでいないテーマだったため、誰にも聞けずに試行錯誤を重ねることも多く、精神的にも大変でした。
しかしそのような経験を通じて、自分で調べて解決策を見つける力や、諦めずに粘り強く取り組む姿勢を身につけることができました。
苦労した分、結果が少しでも得られたときの喜びは大きく、今でも印象に残っています。
Q8.その分野の奥深さや楽しさを、興味を持つ中学生・高校生にどのように伝えたいですか?「この世界、面白いよ!」というメッセージを込めてください。
A.私が理科に魅力を感じたきっかけは、小学校でのある実験です。
酸素の入ったビンにろうそくや線香を入れると、炎が大きくなる現象を目にし、その驚きと感動は今も鮮明に覚えています。
普段は静かに見える炎が、わずかな環境の変化で別の姿を見せることに、強い興味を抱きました。
この経験から、理科の面白さは「当たり前」が「不思議」に変わる瞬間にあることに気付きました。そして、その「なぜ?」という疑問を追いかける力は、身近な現象にとどまらず、歴史的な発明や未来の技術にもつながるのです。
たとえば、ハーバーとボッシュは、空気中の窒素からアンモニアを人工的に合成する方法を発明しました。この発明により、大量の肥料を生産できるようになり、
世界中の食料生産が大きく支えられました。理科の知識や探究心が、人々の暮らしを守る技術につながることを示す代表的な例です。
さらに、未来のエネルギーとして注目されている核融合発電があります。
核融合発電とは、太陽の中で起きているのと同じ原理で、水素の原子核を融合させてヘリウムを作るときに出る膨大なエネルギーを利用して電気を作る技術です。
現在は研究段階ですが、実現すれば安全でクリーンな電気を作ることができる可能性があります。
このように、理科は教科書の知識にとどまらず、身近な疑問や探究心を未来の発明や発見につなげる力を持っています。
理科の世界には多くの驚きと発見があります。ぜひ一緒に探求しましょう。
Q9.最後に、これから進路を考える中学生に向けて、メッセージをお願いします。
A.関東学園での理科の学びでは、卒業までに、生徒一人ひとりが自分で考え、実験や観察から答えを見つけられる力を身につけることを目標としています。また、仲間と協力して課題を解決し、
学んだことを社会に生かす力や、将来の夢に向かって自ら学び続ける力も育てます。
理科の学習や実験に意欲的に取り組める人、仲間と協力して学び合える人、そして好奇心を持ち、理科の面白さを体験したいと考えている人は、一緒に理科の学びや探究活動をしましょう。

牧内 正舟(マキウチ マサフネ)
担当科目:理科(物理)
出身校:新潟大学理学部物理学科
新潟大学大学院自然科学研究科物質基礎科学専攻
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Q1.どのような中学生・高校生でしたか?どんなことにワクワクしていましたか?どんな活動に夢中になっていましたか?
A.中学の時に受けた理科の授業が、私の人生を決めたんです。
中学、高校で受けた授業の中で思い出せるものってすごく少なくて、暗記したり、公式を覚えて問題を解く勉強は、
試験が終わるとほとんど記憶に残らなかったんです。
40年も前なのでうろ覚えなのですが、中2の時に受けた理科の授業、「質量と重力」という内容をみんなで考える授業だったと思います。
「どうして重さに関係なく同時に落下するのか」
を他の生徒や先生にうまく説明したくて、何日も考えて、それを授業で、熱心に自分の考えを発表したんですね。
積極的に人前で自分の意見を言う生徒ではなかったのですが、なぜが、このときはすごく熱心に自分の考えをわかってもらおうと話をしたんですよ。
今思うと、興味を持つことや好きなことは、だれでも話したい気持ちになるのではないでしょうか。
自分は理科というか、自然のあるべき理由を考えるのが、とても好きなんだということに授業の中で気づいたんですね。
その後、自然の法則の成り立ちやその歴史を知りたくなって、図書館で化学の歴史について書かれた本を借りて読んだのです。その中に書いてあった
「圧力、温度、体積が同じ気体は、気体の種類によらず、同じ数の分子が含まれる」
という法則の発見について知ったんです。
「え!質量や原子が違うのに、必ず分子の数は同じなるの?」
と疑問が湧いたんですね。
これって高校で学ぶ理想気体の熱力学をよく理解しないとわからないと思うんですが、納得するまでいろいろ頭の中で実験しました。ちょっと変わってますかね。
でもその頃、アインシュタインという20世紀を代表する科学者を知ったんです。彼も
「光とは何か?」
という疑問から、思考実験を繰り返して、相対性理論を発見したんです。
彼の相対性理論(時間と空間は別々のものでなく、同じものとして考えないといけないという理論)は、ブルーバックスのような一般の人向けの本をたくさん集めて読みました。
将来は、彼のような研究者になりたいなという夢をこのときに持ち始めました。
私の遠い親戚が、1つ上にいまして同じ中学だったんですが、サッカーがうまくて有名だったんです。それで私もちょっと興味が湧いて、サッカー部に入ったのですが、
運動のほうは全然だめでしたね。人には向き、不向きがありますからね。
中学生のみなさんも、今、興味のあることや頑張っているものがあると思うんです。周りの人とか関係なく、自分がやりたいことをやってほしいと思いますね。
私の場合、はじめにも書きましたが、中学の時の授業がきっかけで、自然のことを深く学びたいと思うようになって、物理学科のある大学を考えるようになったわけです。
Q2.進学する分野(大学)に、なぜ興味を持ったのですか?それはいつ頃ですか?「これだ!」と思ったきっかけがあれば教えてください。
A.高校に入るまでに、物理学科のある大学に進学して、物理の研究者になろうと考えていました。その当時は、インターネットなんぞありませんからね、本で物理学科のある大学を調べました。
私立ではあまりなくて、国立を目指さないとダメだということに気づきました。その当時、国立の推薦はなくて、一般入試しかなかったんですね。だから、共通試験で5教科やらないといけない。
そんなことも考えて、地元の進学校に入りました。
自主独立の精神を重んずる伝統校でした。校舎はもう戦前のものだから、窓の隙間から風が入ってくる木造校舎、それも雰囲気があって気に入っていました。
私が通った高校の校歌は、日本一歌詞が長いんです。
それで、中学の同じ人が集まって、朝、電車通学だったのですが、あえて高校の最寄りの駅まで線路沿いを歩いて、電車が来たら手を振って、駅まで行くんです。
そして、駅前で一列になって校歌を、会社に向かう大人や別の高校の人に元気づける?という名目で斉唱したりする個性豊かな人たちの集まった高校でした。
東大や医学部に現役で行くすごい人もたくさんいたので、様々なことを討論したり、良い刺激を受けることができました。
理系クラスには必ず物理の授業があったのですが、私は一度、テストで0点!を取ってしまいました。物理学科を目指しているのに、ひどい点数を取ったわけです。
それだけ難しかったのですが、私もショックを受けて、考えました。すぐに本屋に行って、物理の一番厚い参考書を買ったんです。辞書って厚くて、紙がペラペラですよね。
その参考書も辞書と同じくらいの厚さがありました。
それからは、物理の猛勉強です。それで、点数も少しずつ取れるようになっていきました。
あるとき、物理の授業で、ずって疑問に思っていたことを、医学部を目指していた同級に聞いてみました。それは
「エネルギー保存則は摩擦熱があるときには保存しないが、運動量保存則は、常に成り立つのはなぜか」
と聞いてみたんですね。彼は
「作用反作用の法則があるからだろ」
と答えたんです。
彼の答えは教科書の説明と同じで、私も知っていましたが、それだけでは不十分ではないかと思う理由を彼にぶつけてみました。
医学部の目指している彼ですから、どう答えるのかと思ったんですが、私の顔をまじまじとみて、沈黙したままでした。
物理で0点を取ったこともある私でも、猛勉強をしてなんとか新潟大学の物理学科に一般入試で合格することができました。
大学の電磁気学の講義でレポートを書くことがありました。私は「運動量とエネルギーについての考察」というテーマで、それまでに考えたことをまとめて提出しました。
そのレポートは「優」でした。
教科書に書いてあることを鵜呑みにせずに、批判的に考察しまとめた点を教授に評価してもらえたのです。
Q3.教員になろうとしたきっかけは何ですか?
A.私は物理の研究者を目指していたわけです。その当時、日本は好景気に沸いていましたが、突然、バブルがはじけて、失われた40年と呼ばれる低迷する時代に突入していきました。
自分は昭和47年生まれです。戦後で一番、子供の数が多かったベビーブーム世代ですよ。
そこに突然の不況、
それまでは、たくさんの会社の人事の人が来ていましたが、ぱったり来なくなりました。
私は大学の上、大学院の修士課程にいました。
卒業を控え、博士課程の試験にも合格し、学会の雑誌に論文として発表できる段階まで研究が進んでいました。
迷いもあったのですが、将来への不安もあり、研究者への道はあきらめ、教員になることにしました。人生というのは、なんとかなるものですね。
ご縁があって、本学の理科の教員になることができました。それからずっとこの学校で、物理や自然科学の楽しさを、次の日本を担う高校生に伝えようと頑張っています!
Q4.大学で選ばれた学部・学科を志望した理由は何ですか?その分野に惹かれたポイントや、迷った末の決断などもぜひ!
A.実は、日本史などの歴史にも強い興味があったんです。年号や人名を覚えるような暗記は好きでなかったんですが、歴史上で、人々がなぜその道を選択したのかという理由を考えることが好きでした。
今でも歴史のドキュメンタリーを配信動画で見たりします。
自分は、どうも物事を深く考えたり、なぜそうなるのかを、とことん追求してみたい性格なんだと思います。
そうすると、あまり意識しなくても、自然と、究極の方程式を追及する物理学になったんだと思います。
生物や化学の基本原理は、物理に含まれるんですね。たとえば、元素が200も無い理由は、物理の知識から説明できます。
ただ、実際の現象は非常に複雑ですので、生物や化学があるわけです。
Q5(大学院に進学された先生へ)大学院への進学を決めた理由や背景を教えてください。どんな思いや目標があったのでしょうか?
A.大学に進学したら、当然、相対論の講義があるものだと考えていたんですが、特殊相対論はありましたが、時間と空間を曲げる重力を扱う一般相対論はなかったんです!これは、ちょっとがっかりしましたね。
重力を研究するのは、宇宙論ぐらいです。多くの研究者は、量子力学を研究しているので、使わない一般相対論は、使う数学も違うし、計算に慣れるのに、大変な分野なので、力を入れていなかった。
大学の講義は量子力学の計算に慣れることがメインになるわけです。
仕方がないので一般相対論と必要な数学は、興味があったので自分で勉強しました。
量子力学って何なの?
物質は粒子であり、波でもあるという考え方です。
壁に粒子をぶつけても、全部、跳ね返りますよね。でも、原子くらい小さい世界では、壁をすり抜けてしまう粒子も少しあるんですよ!不思議な現象がたくさんあるミクロの世界は、量子力学によって成り立っています。
今の物理学は専門分野が細かく分かれています。全部の分野に精通している研究者は、天才です。ほとんどいないと思います。
私は、超電導や物性に興味があったので、物性物理を専門に選びました。
大学では、量子力学の基礎的な部分しか学べなくて、分かっていないことを研究するためには、大学院に行くしかありません。
物性論を研究するために、大学院へ進学することにしました。一般相対論は全く使わない分野です。
Q6.ご自身の専攻・専門分野について教えてください。
※専門用語の使用も可です。先生ならではの視点でご説明ください。
A.大学院の修士課程に合格し、磁性を専門とする研究室に入りました。磁性というのは、金属のもつ磁石としての性質のことですね。
皆さんのスマホや医療器具、電気自動車などにも、日本人が発見した強力なネオジム磁石が使われていますね。
ネオジム磁石は中国が主な産出国です。
でも磁石って石じゃないんです。スピンによる量子現象なんですよ。超伝導体も、特異な磁性を持っていて、磁石の上で超電導体が浮きます!
当時、高温超電導体が発見されて、通常の超電導論では説明ができなかったんです。
高温超電導体は、磁性体としても特異な物質系だった。日本は磁性の研究で世界をリードするレベルでしたので、高温超電導体の研究も盛んでした。
超伝導体の理論は、超電導の発見からBCS理論による解明まで、なんと半世紀もかかりました。
当時、BCS理論では説明できない高温超伝導体が発見され、注目されていた。そのような背景もあって、高温超電導体の磁性に関する研究を主にすることになりました。
研究は理論です。
Q7.学部生・院生時代に、学びや研究で特に力を入れていたことは何ですか?印象に残っているプロジェクトや、楽しかったこと、苦労したことなども。
A.院生時代、1年間、指導教官がいなかったんです。フランスの研究者と共同研究されていたので、海外出張されていました。
私は与えられた研究を進める他に、興味のあった分野を独自に研究することにしました。ある意味、幸運だったかもしれませんね。
指導教官とフランスの大変、有名な方との共同研究は、アメリカのフィジカルレビューレターズ(注目度の高い有名な雑誌)に発表されていました。
それは、高温超電導体や磁性体のモデルとして有名なハバードモデルの磁性に関する論文でした。
指導教官から、その論文の内容を一般化するために必要な数値計算を任されていました。数式が複雑すぎて、手計算ではできないので、コンピューターを回して、力技で解くわけです。
長時間の計算になるので、昼にプログラミングをして、夜中にコンピューターを回します。結果がでるのに、半日かかるような計算です。
得られたデータをもとに、考察していく。それをまとめて、修士論文にするわけです。
与えられた研究テーマの他に、私は、1次元、2次元の、低次元における量子のふるまいに興味を持っていましたので、それに関わる研究の論文を読んでいました。
強い力の研究で、ノーベル賞を受賞したウィルチェクが80年代にエニオンを提唱して、低次元では、スピンと統計性の関係が破れる可能性があるという説を唱えました。
それに関わる論文を読み漁ったんですね。この説は分数量子ホール効果の階層構造をうまく説明できます。
間違っていましたが、エニオンで高温超電導を説明する説もありました。2次元で、磁束を付属させた粒子を導入します。アハラノフ・ボーム効果による幾何学的位相によって、その粒子の統計性を変化させるという理論です。
電子はフェルミオンという統計粒子ですが、2次元ではボゾンに統計変換できるという考えです。
スピンと統計性の関係は、量子力学の根源的な原理の1つです。パウリの原理とも呼ばれ、3次元以上はパウリ自身によって証明されています。
それが、2次元では破れているかもしれないというウィルチェクの考えに強い関心を持ったのですが、論文を読み漁っていると、なぜか1次元に関する論文がないことに気づきました。
私は、1次元の場合、磁束を付属させた粒子の考えでは、2次元のようにフェルミオンをボゾンにかえる統計変換はできないことに気づきました。そこで、1次元系をリングにし、
その中心に磁場をリングに触れないようにする模型をつくり、統計性がどうなるかを検討しました。仮に粒子どうしがコアで、おたがいをすり抜けない場合に限ると、フェルミオンをボゾンに変換できることを、数式を使って導きました。
私は、ハードコアフェルミオンという条件をつけないと、統計変換できないことに失望したのですが、1年の終わりにある研究の発表会で、発表しました。
発表後、同僚から「君の研究を教授がとても評価していて、うちの研究室に君を獲ればよかったと言っていたよ」と教えてくれて、自分の研究を高く評価してもらえたことを、大変うれしく思いました。
このときは、不勉強で知らなかったのですが、ハードコアフェルミオンのボゾン化は、「朝永–ラッティンジャー液体」と密接に関係していることを後で知りました。朝永振一郎先生は日本で2人目のノーベル物理学賞を獲った方です。
指導教官が海外出張している間に、自分で仮説を立てボゾン化に関する理論的な研究をして、それなりの結果を出せたことが、院生で特に印象に残っていることです。
Q8.その分野の奥深さや楽しさを、興味を持つ中学生・高校生にどのように伝えたいですか?「この世界、面白いよ!」というメッセージを込めてください。
A.世界の成り立ちをとことんまで追い求める学問といったら、物理です。
もしあなたが、真理を求めることに強い感情を抱く人ならば、物理とは何かを調べてみてください。
「物理学とは何だろうか」(朝永 振一郎)
を読んでみてください。
自分が高校生のときに読んだ本の1つですが、物理の歴史、奥深さがわかる良い本です。
Q9.最後に、これから進路を考える中学生に向けて、メッセージをお願いします。
A.AI・ロボットは、世界を変えるゲームチェンジャーです。みなさんが生きていく世界は産業革命と同じくらい、大きく変わろうとしています。昭和、平成の頃と比べると、仕事の内容、求められる能力が大きく変わろうとしています!
AI・ロボットは、データ入力や記録など繰り返しの単純作業が得意です。それらの仕事はAI・ロボットに置き換えられていきます。逆に置き換えにくい仕事は、コミュニケーション、創造性、臨機応変の対応などが必要な仕事です。
これからは、「AI・ロボットにできないことは何か?」を考えて進路を考える必要があります。そして、AI・ロボットの進化は目まぐるしいのもがありますから、だれも将来を正確に予想できないです。
ですから、みなさんは、不確実な将来でも困らない人間が得意な能力はなんだろうか?と考えながら、それを磨いていくしかないと思います。
今のところ、協同性、創造性、批判的思考力は人間の得意とする能力であり、これらの能力を伸ばすことがよいと考えられています。
逆に暗記力や公式を正確に使って問題を解くというような能力は、AIの方が得意ですから、そればかりではだめとなってきています。
勉強はテストで点数をとれさえすればよいという考えが通用しなくなってきているということです。
私は、もう15年以上前から、グループ学習に力を入れてきました。もちろん、その頃にAIのことを予想していたわけではないですよ。勉強をして、新しいことを学べて、楽しかったなと思える授業をしたいと思っていました。以前、私の授業を取材してくれた方々もいました。
理想としては、先生の言っていることや教科書に書いてあることを批判的に見れるくらいになってほしいという願いもあったんです。グループで学習すると、みんなと協力して話し合い、いろいろな意見に触れますよね。友人の意見を聞いて、自分の意見に取り入れていけば、自分の価値観、ものの見方が広がります。これは、創造性につながると思うんですよ。どんどん話し合いが進めば、もう討論です。討論の中から批判的思考力も育っていきます。ですので、私は授業を通して、知識だけでなく、生徒の可能性、人間性を伸ばしたいと考えていたことになるかと思います。
これを読んでくれたみなさんに最後に言いたいことを書きます。ぜひ、自分が熱中することを見つけてください。自分の趣味に没頭し、とことん追求してください。やりたいことがあれば、自然とやらなければならないことにも気づくでしょう。あなたの夢に向かって、最高の人生を送ってください。

小山 善雅(コヤマ ヨシマサ)
担当科目:地理
出身校:早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修
早稲田大学大学院教育学研究科社会科教育専攻修士課程修了
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Q1.どのような中学生・高校生でしたか?どんなことにワクワクしていましたか?どんな活動に夢中になっていましたか?
A.私の出身校は麻布中学校・高等学校という中高一貫の私立の男子校です。勉強に力を入れている私よりも優秀で活動的な生徒が多く、そのような環境の中では、
私は地味で目立たない中高生だったと思います。そのような小さな自分の枠を越えたかったかのように、スケールの大きな話や世界を探るような話に、私はワクワクしてきました。
私が中高生だった頃はゲームボーイやスーパーファミコンが流行した時代で、「ポケットモンスター赤・緑 (任天堂,1996年)」「魔界塔士Sa・Ga(スクウェア,1989年)」などのゲームに私は「夢中」になりました。
「ポケットモンスター赤・緑」の中の「おとこのこが4にん せんろのうえを あるいてる… ぼくももういかなきゃ!」という台詞や、「魔界塔士Sa・Ga」の中の
「はるかな らくえんを ゆめみて おおくの ものたちが このとうの ひみつに いどんでいった」という台詞には、スケールの大きな冒険に出る感じや、世界の秘密を探るような感じが詰まっていて、心をとてもワクワクさせたことを覚えています。
私が中学生・高校生だった頃には、阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・バブル崩壊など、社会に大きな影響を与えた出来事がありました。
そのためか、世の中の変化がなぜ、どのように起きるのか、ということに関心を持つようになったと思います。
中学三年時の個別調べ学習のテーマには「終身雇用制の崩壊」を選び、変化する世界の中で「この先生きのこる」ことにも関心をもちました。
世界を見ること、世界を探ること、世界の変化を学ぶことは、私の担当教科である「地理」の探求につながっていると思います。
世界は私たちそれぞれを中心に回ってはいないので、私たちは世界の悪い変化を恐れ、世界の顔色をうかがって日々生きているかもしれません。
しかし、世界には良い変化もきっとあるはずです。世界の変化を「ワクワク」として捉えられるような勉強を仕事にして生きていきたい、と考えるようになりました。
Q2.進学する分野(大学)に、なぜ興味を持ったのですか?それはいつ頃ですか?「これだ!」と思ったきっかけがあれば教えてください。
A.小学生の頃に『地球大紀行』(NHK総合,1987年)という番組を見て、「引き裂かれる大地」や「巨大山脈の誕生」など、
スケールの大きな自然の地形変化の話に心を揺さぶられました。そのせいもあって、世界の様子や自然を学ぶ理科や社会、そして、地理に興味を持つようになりました。
母校は生徒のほぼ全員が大学進学を目指すという環境でした。校内の成績では下位だった自分が、多くの競争相手がいる中で、
他人と比べるより自分の心に目を向けて、一番学びたいことは何か?と考えたら、それは自然地理学でした。前述のように
「スケールの大きな話や世界を探るような話」に興味を持っていたので、自然地理学を勉強できる大学を進路として選んだことは正解だったと思います。
Q3.教員になろうとしたきっかけは何ですか?
A.自然地理学を学べる大学を探して受験した結果、進学できたのが早稲田大学教育学部でした。
教育学部に入れたのでその機会を活かそうと考え、通常授業の他に教育関連の授業を取り続けた結果、教員免許を取得することができましたが、
大学卒業の2005年頃はいわゆる就職氷河期でした。地理が好きで勉強をしてきた自分は、その勉強をどのように仕事に結び付けるか
イメージができていませんでした。そこで私はそのまま勉強を継続する進路を選び、早稲田大学大学院に進学しました。
その後は、いくつかの学校での非常勤講師や、不登校支援教室の補助員、塾講師、保険の営業員などを経験しました。
そして、大学および大学院のゼミで指導して下さった久保純子先生からの紹介を受け、本校の教員となりました。
つまり、教員になったきっかけは、お世話になった先生のおかげです。また、大学および大学院に進学させてくれた両親のおかげでもあります。
ちなみに、保険営業をしていた頃に、今の妻と出会いました。迷いが多く、進路は回り道でしたが、無駄ではなかったと思っています。
Q4.大学で選ばれた学部・学科を志望した理由は何ですか?その分野に惹かれたポイントや、迷った末の決断などもぜひ!
A.教育学部社会科を志望した理由は、その学部・学科に地理学専攻があったからです。地理学専攻を志望した理由は、
前述したような興味・関心があったり、知らない世界や未知の道理を知ることに惹かれたりしたからです。
未知への興味は人類が発祥の地を出た頃から始まっているのかもしれません。たとえ生涯でその場所には行かなかったとしても、
こんな場所があるんだ、と知るだけで私は嬉しくなります。
「メイドインアビス」(つくしあきひと,2012年)という作品には、「そんなものじゃ あこがれは止められねぇんだ」という台詞が出てきます。
また、「黄昏の賢者」(SoundHorizon,2006年)という歌には、「未見ぬ者へ つながる歌物語 そこにロマンは在るのかしら?」
という歌詞が出てきます。止まらない興味とあこがれ、未だ見ぬ世界につながる学問…「地理学にはあこがれとロマンがある」と私は思います。
志望に迷ったときには、自分の意志に響く「あこがれ」や「ロマン」を探してみると良いかもしれません。
Q5(大学院に進学された先生へ)大学院への進学を決めた理由や背景を教えてください。どんな思いや目標があったのでしょうか?
A.就職先が決められなかったので勉強を続けました。今の自分にできることは勉強だと思いました。
Q6.ご自身の専攻・専門分野について教えてください。
※専門用語の使用も可です。先生ならではの視点でご説明ください。
A.専攻・専門は自然地理学です。修士論文は「多摩川左岸における立川段丘面区分の再検討」です。
多摩川左岸における立川段丘面区分の再検討
(リンクを押すとPDFがダウンロードされます)
多摩川の河岸段丘は貝塚爽平先生などの多くの研究者の方々により詳しく区分されてきましたが、立川Ⅰ面と立川Ⅱ面の区分にはまだあいまいな部分があると考えました。
そこで現地調査を行い、ハンドオーガーで掘り出したローム中のAT火山灰の有無によって区分を推定し、地図に表しました。
立川段丘面区分の再検討の意義としましては、Ⅰ面が形成されたという酸素同位体ステージ3の少し温暖な時期は、
ステージ2の時期より少し長く続いていたのかもしれないこと、I面とⅡ面の境界が立川断層に重なっているとすると、
立川断層の活動度の評価に影響するかもしれないこと、気候変動や地震の研究にこの区分結果が役に立つかもしれません、といった内容になります。
論文の作成では大学ゼミの指導教官であった久保純子先生に大変お世話になりました。
後にこの論文は、渡辺満久先生の「変動地形学的特徴にもとづく立川断層南部の存在の再確認」において、地形学的特徴から見ても立川断層の存在は確実、
という主張の中で言及がありました。私も立川断層は確実と思っております、このような私の調査にも言及していただき恐縮であります。
なお、渡辺先生の授業は大学で受講したことがあり、撓曲崖の話や胆沢川扇状地の巡検はとても良い勉強になりました。
Q7.学部生・院生時代に、学びや研究で特に力を入れていたことは何ですか?印象に残っているプロジェクトや、楽しかったこと、苦労したことなども。
A.学部生時の卒業論文のテーマは「新宿・渋谷の地形と景観」でした。
私が育った東京の渋谷区は、台地に小さい谷が複雑に入り込む地形となっていて、
幼少の頃から自宅周辺に坂が多いことは気になっていました。
東京の台地および段丘は、前述で触れたように多くの先生方に詳しく研究された分野で、
新しい研究視点を考えることは困難でした。そこで、「自分から見える景観」をテーマにすることで、「自分なりの視点」というオリジナリティを模索し、
谷や斜面地が緑地としていかに残されているか、ということを結論として書きました。
よって、学部生時代に力を入れたことは既存の研究との違いを考え出すことでした。
起伏が多い東京の地形に注目する方は少なくないらしく、台地に刻まれた谷頭のU字型の窪地に由来する「東京スリバチ学会」というものが
2003年(ちょうど自分が卒論のテーマを据えていた頃)に作られているようです。
また、街歩きの達人タモリさんが出演する人気番組「ブラタモリ(三田・麻布)」(NHK,2009年)では、
東京の台地と谷が生み出す「段差」に対するタモリさんの熱い想いが語られています。
日常的な話題にはなり難いテーマだとは思いますが、熱心な「あこがれ」を持つ方々も少なくはない、
地形学の学びに力を入れることができた経験はとても楽しく、印象に深く残ったと、今も心から思っています。
院生時代の修士論文では、いくつかの地点で数mの穴を掘り、地下の土を取り出して、お椀の中で水にさらして洗い、
特徴的な形をした火山灰を顕微鏡で探す調査を行いました。多数の土のサンプルを運び出し、根気強く観察を繰り返す作業には苦労しました。
調査地への移動や土の運搬は父親が車を出して助けてくれたので、進学費用とあわせ父親には多くの苦労をかけました、大変感謝しています。
*「学びや研究で特に力を入れていたこと」の補足:私が生まれ育った地域と地形について
私が生まれ育った所は、小田急小田原線の「代々木上原駅」という駅がある場所の近くです。
この場所の地形を「地理院地図3D」であらわしたものが以下の地図です。
原図のリンク先
地図を見てみると、この場所は起伏に富み、上原が(谷から見て)「上にある原」だと分かります。

また、「初台」という場所も「台」のように高くなっていることがわかります。他にも「渋谷」や「富ヶ谷」など、低所が谷になっている地名がみられます。こうした地名があるような起伏に富む場所で育ち、特に子供時代は「徒歩」や「自転車」で移動することが多かったため、坂の上り下りを体感する機会は日常的にあり、「このような坂の多い地形はなぜ生まれたのか…」という疑問を持ったのは自然な流れだったと思います。
今でこそ上記のような「色別標高図」は、パソコンおよびインターネットで簡単に表示できるようになりましたが、私が幼少の時にはまだこのようなシステムは身近にはありませんでした。
当時の自分にはまだ見えていなかった「世界の不思議」を分かりたい…そんな好奇心も地理への関心の始まりだったと思います。
中学高校時代は日々のことに精いっぱいで、こうした地形の不思議を探求するまでに至りませんでしたが、大学に進学して自然地理学の先生に師事し、
卒業論文のテーマを選んだことで、子供の頃に抱いた疑問に向き合うことができました。小さな疑問も大事にしていれば、あとで大きく育つかもしれません。
ところで、大学で自然地理学の先生に教えていただいき、学んだ内容のひとつに、「国分寺崖線(こくぶんじがいせん)」というものがあります。
これは、古い時代の多摩川が地面を削って作った地形で、地形としては多摩川による河岸段丘(かがんだんきゅう)および、段丘崖(だんきゅうがい)となります。
以下は地理院地図を用いて国分寺崖線の一部の位置を表した図になります。
原図のリンク先

現在の高校1年生では「地理総合」という科目が必修となっています。「第一学習社『地理総合』(令和6年発行)」という教科書では、この「国分寺崖線」、
および、地図に示した「恋ヶ窪地区」が、「歴史・文化・自然」とあわせ、「地図を持って歩こう」という題目で、詳しく紹介されています。
私が高校生だった時には地理は選択科目であり、「地理総合」という必修科目はありませんでしたが、時を経てこうした「地理を大事にあつかう」項目が登場し、
また、かつて学んだことが詳しく扱われるようになる様子を見ると、勉強はいつか役に立つことがあるものだ、と深く感じます。
また、上記の地図中の地域および国分寺崖線に関して、
TBSテレビ2025年10月9日のニュースページ では、
「東京郊外にある『深大寺』が若い世代の間で大人気となっています」
「“自然界隈”!SNSで流行ってる」
という話が出て、上記の地図中にある「深大寺」がとり上げられました。
深大寺は私も子供時代に何度か訪れたことがあります。
勉強したことが「明日にでもすぐに稼げる役に立つ」とは限りませんが、時を経て話題になったり、学んだことを「良かった」と思い出したりすることは、実際にあります。
ぜひ前向きに勉強に向かってみて欲しいです。そして、「関東学園の先生と学んで良かった」となれば本当に嬉しいです。

Q8.その分野の奥深さや楽しさを、興味を持つ中学生・高校生にどのように伝えたいですか?「この世界、面白いよ!」というメッセージを込めてください。
A.「この世界が面白い!」と思います…地理の学びで世界を探ってみませんか?…どこかに行けそうで、どこにも行けない…でも、少し前に進んで学べば何かが変われる…そんな学びが面白いよと思います。
ちなみに地理学では「世界の宗教」も扱うため、授業では日本神話や旧約聖書にも触れています。「世界の始まりの日」がどのように考えられてきたか、という秘密を探るような話も面白いと思います。
Q9.最後に、これから進路を考える中学生に向けて、メッセージをお願いします。
A.私より優秀な先生方は他校にも大勢いらっしゃると思います。しかし、私は他校に負けないくらい気持ちを込めた授業を行っています(この文章にも気持ちを込めています)。もし、他と自分を比べることがあっても、「自分の心で一番」と思えるような学びが見つかれば進路は開けると思います。「関東学園大学附属高等学校の『学び』に興味を持ったから!」という志望理由で本校に来て下さったらとても嬉しいです。